iT、コンテンツ、情報やエンターテイメント分野において生じる法的課題解決を重視しています

序論

こちらの整理です。

現行法の用語法に従うなら、(「プログラム」▶︎)「データ(機械語)」▶︎「表現したもの」(「著作物」(法定の要保護性を満たす場合のみ)を含む)という関係でしょうか。著作権法の「情報」は、(「プログラム」▶︎)「データ(機械語)」▶︎「表現したもの」をすべて含むように考えられます。

という整理でしたが、(「プログラム」▶︎)「データ」▶︎「再製物」 ▶︎「著作物」(法定の要保護性を満たす場合のみ)という関係に再整理したいと思います。著作権法の「情報」は、(「プログラム」▶︎)「データ(機械語)」を含む、いわば、「データ」と同義に捉えるべきように考えられます。

データの送信とは

データの物理的な存在の仕方というのは、もう少し早めに調べればよかったと思います。

著作権法上の送信や、プロ責法の流通の概念の理解に大きく関わるうえに、調べてみると、過度に複雑な話ではなかったため、もう少し早くデータの物理的な状態というのを調査しておけばよかったです。過度に専門的すぎて、さすがに必要ないまたは、踏み込めない議論かと思っていました。

「送信」とか「流通」というと、情報が流れていっているような印象です。しかし、実際には情報はそこにとどまります(保存された情報が消失すれば問題なので考えれば当たり前ですが)。そして、元の情報がインターネット回線を通じて信号を打ち出し自身のクローンを送信先につくるようなイメージが実態に近いようです。サーバーのデータを送信を理解する文脈では母体データ、親データなどと把握してもよいかもしれません。

つまり、情報の流通は、情報の増殖にイメージが近く、送信は、サーバーとクライアントで、物理的存在として異なるデータが複数、再製(通常は複製ではない)されているというのが物理的な状態のイメージに近いようです。つまり、親データが信号を送り、クライアントコンピュータ記憶領域に、子データを形成しています。

著作物を起点とした情報の線

データだの表現したものだと分類していた考えの一つのは、著作物の「複製物」にあたるものを、結局、データとは別にデータを再生した結果モニターに映し出される画像等として別に把握した方が良いのではないかとのアイディアです(データだと必ずしも複製が伴わないため著作物の「再製物」。)。

そして、送信が情報の増殖であれば、情報も物理的には複数存在し

著作物▶︎再製物▶︎子データ1▶︎子データ2▶︎親データ

とひとつの点で形作られた線が出来上がります。

あとは、この線の出発点と、中身を議論していくというのも一つの方向となり得るのでは無いでしょうか。

情報の捉え方

反面物理的なデータの点を流れていっている「もの」(としか表現できないもの)を無体物としての情報と捉える従来の自身の理解(一般的理解?)に近い捉え方もあり、このあたりは法学における情報の捉え方にもかかわりますから、答えはある種そうそうでない部分なんでしょう。。。

「情報」(著作権法2条1項9の5号)を、個々のデータを流れる観念的なものと捉えるか、個々のデータのうちサーバに保存されたデータと捉えるか、個々のデータ複数の総体と捉えるか。。
個人的には観念的なものは少ない方が良いので、データと捉えた方使いやすい法解釈になるのではないかと思います。

通信分野において情報は、ほぼ、データを意味する例が多い、ということです。

情報の同一性

情報は文理上の観点も含めてデータの意味で捉えるとして、データの同一性つまり、同じデータをそのまま表示する場合と、別のデータとリンカして表示する場合、どこまでを著作物に関する情報として同一と捉えるべきなのでしょうか。。

動画的なウェブサイトで実現される個々の素材を組み合わせた新しい表現。そこまでいくと、動画的な表現を構成する要素だけでなく、動画的な表現そのものに、著作物性を見出し新たなデータが複製されているとか、送信されていると捉えざるを得ないと思うのですが、ではその限界はどこにあるのか。

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