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本邦では、著作権法と憲法上の人権、特に表現の自由と著作権法の関係は判例実務上、あまり語られてこなかった。

著作権法が表現の自由を侵害し違憲であるという主張は、権利濫用の抗弁や差し止めの成否の中で若干言及される程度で、この点が強く主張された著名な訴訟は知る限り見当たらない。

そのような経緯もあり本邦では著作権による表現の自由への制約に対する違憲審査基準を語った文献は多くはない。そこで、著作権の表現の自由に対する制約の違憲審査基準について、独自の観点から検討をしてみたい。

公共財としての表現と著作権付与による私的財への転換

言論も基本的に市場で交換される財の一種であるという前提のもと、表現の自由を公共財とする議論がある(阪口正二郎「表現の自由の「優越的地位」論と厳格審査の行方」(「表現の自由Ⅰ-状況へ」(2011年5月)駒村圭吾・鈴木秀美 編著558ー585頁))。

表現は、消費の排除性と競合性が働かない公共財であると捉えると、その市場への発出は容易に萎縮し、供給が過少となりやすい。

消費の排除性は、財に対して対価を払わない人物を排除できる性質をいう。知的財産権で保護されない表現や言論は、複製、譲渡、貸与が容易であるから通常無償提供され、対価を払わない者を排除できない。

消費の競合性は、ある人物の消費が他の人物の消費を妨げない性質をいう。知的財産権法で保護されない表現や言論は複製が自由であること、よって無限に譲渡、貸与できることから消費によって消失せず競合性がない。

そこで、著作権法による表現の私的財への転換が図られたとも言える。私的財への転換により、表現者にインセンティブを与え、表現の活発な発信を志向したのである。

つまり、著作権法によって複製や譲渡、貸与などが禁止されることで、表現の複製が制限され競合性が生み出される。また、複製が制限されることから複製物が有償化しやすく排除性が生み出されることになる。

このように著作権法が表現を保護することで排除性と競合性が生み出され、表現や言論を公共財から私的財に転換することができる。

表現の私的財への転換によって、経済的動機付けによる情報の拡散が一定程度期待できる。また、それでも拡散しない情報は市場価値が高くないため該当表現が社会に十分に供給されないことによる問題は少ないと捉える。著作権は、比喩的な意味ではない、真の意味の言論の自由市場とも言える状況を作出するのである。

この本来公共財の性質を持つ表現や言論に対する私的財としての性質付とその結果生じる経済機能の付与こそが、表現の自由のエンジンという著作権法の位置付けの意味とも考えられる。

そうであれば、私有財としての表現は、公共財としての表現のような脆弱性を経済的動機付けによって一定程度手当てされているとも言える。つまり営利的言論において経済的動機付によって本来の表現の持つ萎縮性などの脆弱性が中和されているという議論が、表現そのものを私的財とする著作権による保護下の表現物には、すべて同等に当てはまるとも思える。

その意味で、著作権による保護が切れて公共財(=パブリックドメイン)に戻るまでの期間は、表現は私的財として経済的動機が与えられているから、萎縮効果は相対的に減少するとも言える。

その意味で、著作権法による表現の私的財化は表現の自由の一つの有り様であり、当該表現については、公共財としての表現における脆弱性が著作権法によって一定程度手当てされているとも言える。

その意味で著作権法は、公共財たる表現を私的財に転換することで、その発出の促進を図る政策的立法とも捉え得る。すなわち、著作権法が表現の自由のエンジンであるというより、著作権法による表現や言論の私的財への転換が齎す市場効果が、表現供給の動力として機能するのである。

著作権法は、それ自体が表現の自由のエンジンというより、表現の周りに表現の自由を拡散する動力源たる市場を生み出すのである。

比喩としての性質を持たない言論の自由市場

つまり、著作権によって表現の自由が広く制約を受けている根拠は、該当の表現が著作権法によって私的財に転換することで、本来の公共財としての表現がもつ、萎縮に対する脆弱性が経済的動機付けがもたらす情報の供給に対する期待によって手当されているからである。

すなわち、著作権侵害行為を禁止しても、当該表現については、経済的動機付けにより正規の権利者が、正規ルートでの表現の拡散をすることが期待されている。また、それでも拡散しない表現はそもそも市場価値が高くないため、拡散しなくても問題が少ない。

ある意味本来の比喩的の意味ではない、真の意味の言論の自由市場とも言える。また、これを作出するのが表現の自由のエンジンとしての著作権である。

著作権法に対する違憲審査基準

著作権法による表現の自由に対する制約を厳格に審査することは、トートロジーを生み出し得る。なぜなら、著作権法の目的は公共財たる表現を私的財化し、その発出のインセンティブを与えること、ひいては表現の自由を強化するための施作だからである。

つまり、表現の自由を保護するために表現を私的財化したとすれば、当該私的財を保護せず表現の公共財的性質を再度強めることは表現の自由の保護に悖ることになる。

このような観点に立ったとき、表現の自由に対する著作権法による制約に対して、厳格審査基準を適用する根拠を欠く可能性がある。すなわち、著作権侵害を伴う表現は、著作物という私有財に転換した表現を含み(類似性)、かつ、それに依拠している以上当該表現にはすでに経済的動機付がされている。

すなわち、侵害を含む表現を禁圧したとしても、当該表現にはすでに経済的動機付がされているから正規の権利者による情報の拡散が期待できる。また、そのような拡散が生じない表現は社会にとって相対的に価値が低いことから、拡散しないことによる弊害大きくない。よって、当該表現に対する制約の萎縮効果は経済的動機によって中和されているともいい得る。

この観点から、著作権侵害を伴う表現行為に対して生じる著作権法の制約については、厳格審査基準が妥当する根拠を欠く可能性があるというべきである。

営利的プラットフォーム上の言論と表現の自由の萎縮

ツイッターやインスタグラム、YouTubeなどのプラットフォームは、営利的言論空間である。当該空間での活発的な言論にはプラットフォーマーの収益という営利的動機をとおして発言の活発化が図られる。したがって、プラットフォーム上の言論に対する萎縮効果は、経済的動機に基づく発信の促しによって、相対化される。

この意味で、プラットフォーム上の言論に対する著作権法による制約は、プラットフォーマーの経済的モチベーションによって治癒され得るから、そもそもそこは公共財としての表現空間という性質を相当程度減殺されている。そうであるとすれば、その空間での表現に対する制約に対する違憲審査基準は厳格でなくとも足る可能性がある。

インターネット全盛における著作権保護のあり方

本来、複製および流通の容易化は、表現を公共財とする方向で作用する。よって、印刷技術の発展による表現の公共財化が、著作権の起源なのであれば、印刷技術の発展に勝るとも劣らない技術革新が生じ、より表現の複製と拡散が容易になったインターネット全盛の昨今、著作権法はむしろ厳しくする方向性が妥当する状況とも思える。

ところが、一般ユーザーが複製及び供給の主体となった現代において著作権法はむしろ厳しすぎると指摘される。

この点は、長期的な視点にもたって、著作権の規制のバランスを注視すべき点とも言える。

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